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2010年2月25日 (木)

灯台下暗し

23日。散髪。シャープペンを買う。三菱鉛筆の「くるとが」。芯が太くならないという説明で、たしかに疑問やコメントを書き入れるのに便利。しかし、結構精密らしく、気軽には使えない。
西武線で帰ってきたが、駅の東口の本屋に寄り道。
岡義武『近代日本の政治家』があり、今月新刊の高安国世訳『リルケ詩集』(岩波文庫)とあわせて買う。地味ながら、岩波の特約店なので文庫が結構ある。蘆花の『謀叛論』まであり、こんなことなら図書館でコピーなどとるんじゃなかったよ。まったく灯台下暗し。いやいや、一昨年はここで『職工事情』を発見して購入したのだから、やはり今回の仕事、コンディションが十分ではなかったのだ。

リルケは高安さんの訳。こんなものがなぜひっそりと文庫新刊でと思ったが、よくよく見ると講談社の詩集→講談社文庫というコースをたどったらしい。かつての自社親本→自社文庫だった岩波とは比べ物にならない柔軟さ。

この夜、仕事で使った『石橋湛山評論集』(岩波文庫)を読了。専業主婦モデルは立ち行かない(生活のため夫婦働くのが当たり前になっている)という指摘、植民地放棄論(東大の河合栄治郎が「議会主義」ゆえに満州国承認へと引きずられていくのと大違い)、軽武装・協調外交路線と、少しも古くなっていない。この文庫の初刷は、たしか、湛山生誕100年に出されたはずで、石田博英と編者の松尾さんとをゲストにした講演は小野講堂で聞いたはず。

2010年2月18日 (木)

小泉三申

ネットサーフィンをしていて驚いた。

P1010874_3  今度の『原敬 平民宰相伝説』仕事で知った三申こと小泉策太郎。私の父方の親戚とラ イバルだったのだ。大伯父(父の伯父。父は両親が早くに離婚し、この人に育てられた。だが、どうしてだか、籍を入れておらず、ひと悶着の種を残すことになる)の伯父・石井研二は、第14回(大正9年)衆議院議員選挙に静岡10区から憲政会からトップ当選したことがある。原内閣で導入された小選挙区制における選挙であり、政友会の2議席独占を阻んだというわけだ。その時の2位が小泉策太郎すなわち三申。

こう書くといかにも格好いいが、しかし、「そこまで」と「それから」が石井氏と三申では比べ物にならない。
三申がはじめて当選したのは、大選挙区時代の明治45年。それ以来、昭和11年に落選(この選挙では社会民衆党から当選者が出ている。坂野さんの『昭和史の決定的瞬間』というのが実感される)するまで、当選し続ける。

これに引き換え、石井は、明治45年(第11回=立憲国民党)、大正6年(第13回=憲政会)と落選し続け、大正13年の第15回からは反政友会陣営は別の人に代わっている(第12回は石井は出馬せず)。

大正6年の当選者8名を見ると、ビッグネームがもう一人。第5位の気賀勘十(政友会)である。『国富論』翻訳史で必ず出てくる一人。このサイトはすでに何べんか利用しており、気賀の名を見たときは慶応に行かなくってよかったと思ったが、競争相手に小泉三申がいたとは。

さて、この「石井の伯父」。静岡の親戚にはずいぶん崇拝してくれておられるかたがいたし、僕の父など自慢しまくりんぐだったが、あまり好きになれない人物らしい。

P1010875_3 政友会の強い地方で、反政友会~革新倶楽部~民政党の系譜というと、いかにもリベラルそうに聞こえる。たしかに、憲政会は治安維持法反対や軍縮で知られるが、しかし、石井氏、実際はわけのわからない事業をいくつもやっていたらしい。親戚中が政治道楽に付き合わされた結果、大伯父はじめ、進学の希望を断たれた者、数知れず。その癖、当時の政治家の例として女性関係は派手で庶出の子をいったん、うちの親戚の戸籍に入れたのち他家への養女とし、そこから上級の学校まで行かせるという神経。死んだのも正妻の家ではなかった。非嫡出子差別がどうのこうのという以前の問題だろう。

今度の仕事のあと、風邪を引いたのは、「石井の伯父」のたたりだったのかもしれない。写真はわが家のアルバムにあった石井研二肖像と死亡記事。べた張りだったのでいつごろかわからない。

2010年2月16日 (火)

早稲田学報2010年2月号、そして、「公」インフレ

P1010872_2 図書館に用事で調べ物に行って、幽霊校友会員を卒業したのだが、その際、『早稲田学報』2002年2月号をもらった。これに誤植が。画像はこちらの下手でちと黄色いが実際はつるんこつるんこした白っぽい紙である。
JAXAに就職したロケット研究者を取り上げた記事なのだが、編集部かデザイナーが気を利かせたつもりで入れたツィオルコフスキーの公式が変である。わかりますか? そう、自然対数のlnがInになっている。つまりエルがアイになるというありがちなミス。理論経済学や理系の学問をやった人間ならまず見逃さないはずなのだが。

インタビュー対象になった人はおそらく、内容が歪曲されていないか、つまみ食いされて論旨がおかしくなっていないかは見たかも知れないが、挿絵代わりの数式まではみていないはずである。

編集部はといえば、本文には別の意味で、僕らの学生時代、本部キャンパスなら論議の対象となったような、防衛大とのサークル同士の共同研究が載っているから、そちらで緊張したのだろうか? まさか。産学協同研究粉砕がいわれた時代ならともかく。ジョージ・ブッシュの訪問まで載っている号である。

この雑誌、冒頭の秋吉久美子がちょっと読ませるものの、01年一文卒の学生の作文は読めたものではなく、大隈公を連発するのと手垢のついた表現を連ねただけ。カルチャーセンターでの論文講座なら真っ赤に添削が入る事間違いなし。

なお、大隈公は誤植ではない。大隈侯は爵位に寄せての表記。公は「さん」の丁寧なもの……らしい。そういえば、昔、子孫の大隈信幸氏との対談記事で片岡寛光さんが、大隈さまといっていたのを思い出した。それより敬意がこもった感じなのだろう。早大図書館の目録を、「大隈公」という、キーワードで検索するとあるわあるわ。「大隈侯」より多かったりする。おそらく、整理の際に、著者を「大隈公」としたことによる。

しかし、「公」ときいて、道真公、大楠公を思い起こす人は、今どれだけいるだろう。むしろ、貴公、ポリ公、ズベ公、HATI公、エテ公……を連想してしまったりする。古、貴人を乗せた車が今では大八車代わりに使われてるようなものだ。

2010年2月10日 (水)

菊池武夫といえば

菊池武夫氏について再び。

……菊池武夫というと、貴族院で天皇機関説排撃の火蓋を切った、宮崎県出身の貴族院議員(陸軍中将・男爵)を思い出す。貴族院における美濃部(貴族院議員)の説明に納得して謝罪したものの、右翼が騒ぎ出して手を付けられない状態になり、さらに美濃部は狙撃されている。菊池男爵は、そのあとに続いた河合栄治郎に対する迫害にも関与した人物である。

くしくも、TAKEO KIKUCHIのほうの菊池氏は、「先祖は熊本の菊池神社に由来する菊池一族」だそうで、これは作家の菊池寛(文春創立者)と同じだが、父親にあたる人は、「若い頃に九州から東京に出てきて、右翼の大立者、頭山満に私淑しながら政治活動とビジネス」をしていたとあり、「ちょうど僕が生まれた時はビジネスも全盛期」だったそうだ。まさか、「あやかり名」だったのだろうか。世界の小澤は、板垣征四郎と石原莞爾からのあやかり名だった。そこまでいかなくても、目白の今太閤・全盛時に「角栄」と名づけられた子がえらいいじめにあい、結局改名したというのもあったな。

ともかく、これ以来、TAKEO KIKUCHIを見ると妙な気分になる。仮にあやかり名であっても、子どもは親を選べないのだが、それにしても、こうあっさりといわれると……。戦時中、菊池家は六畳三間の離れを丸ごと解体して地下に埋め防空壕として活用し、終戦とともに掘り起こして組み立てたというえらい話が出てくる。何せ敷地は400坪だったそうだ。戦後は、米軍将校夫妻が家を借り、彼らに教えてもらったレコードでジャズに目覚めたそうだ。しかも学校は、暁星学園。君が代を歌ったことがないとある。ほんとうかね。カトリックの立ち位置というのは微妙で、山本(信)提督のような存在もあるのだが。この人の頭の中を見てみたい。すごいトラウマがあったりして。

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