2008年7月12日 (土)

秦恒平『迷走』再読

P1010610_2 作家の秦恒平さんから、コメントをいただいていた。祖母の葬儀からこのかた、もう20年以上、お目にかかっていないのだが――。

九条歌人の会に対してほかならぬこの人(本家の九条の会賛同者にして、歌集『少年』の作者)が、「散文でできることではないのか」という誠実な疑問を『短歌現代』で書かれていたのを思い出す。

古典に不勉強な僕は、それほどよい読者ではない。その上であえて、マイブーム(?)を挙げると、まず『迷走』になる。
『迷走』ねぇ――。本気ですか、という人もいそうなので、若干補足。

作者ご自身、

「『編集者もの』『課長もの』をまた書くかと訊かれる。書きたいものを、書く」

といささかぶっきらぼうに「あとがき」に書かれたが、医学書院での激しい労使対立を背景とするこの作品は、他の作品群と比べていささか孤立した感がある。1976年の出版当時も、「あの古典愛読者がこんな分野を」と受け取られただろうし、内容的には、突き詰めた反体制の文学者の作品――たとえば、74年に刊行された、高橋和巳の『白く塗りたる墓』(初出は70年)のように、主人公が内部告発の果て、やがて職場からはみ出して破滅していくであろうことを予見させるような結末にはなっておらず、最初に読んだときは、そのあたりを物足りなく思ったはずである。ひょっとしたら、お手紙でも差し上げたかもしれない(今となっては恥ずかしい)。

 この作品の面白さがわかったのは、ひょんなことから、校正者として、査読つきの雑誌――社会科学系だが――に出入りするようになり、出版関係の末端に関わるようになってからである。70年安保の前後、出版労連加盟組合OB(どういうわけか大手が多い)のしきりに懐かしむ『英雄時代』の内実はどうだったろうか。権威主義的な医者の世界との共犯関係の中で生きなければならない編集者のすがたがあり、恵まれた会社の中での労組の「騎虎の勢」への批判を主人公の妻が口にする。このあたり、出版太郎『朱筆』の医書の価格をめぐっての指摘とも共鳴しつつ、今日にもつながる問題なのだ。医学書院労組(出版労連の有力単産の一つ!)の活動家たちは、この作品の刊行時、怒ったか、頭をかいたか――。

もちろん、30年以上前に書かれた小説である。出版社の経営組織など、必ずしも同じではないかもしれない*。「コピー取りのおばさん」「庶務課のおじさん」は、非正規社員にかわっているだろう。もっとも、製作ならまだしも、著者への依頼や細かな交渉ごとは、非正規社員には任せられるとも思えないから、他の産業のような非正規の基幹化ではなく、なんらかのかたちで仕事を切り分けるという程度なのかもしれないが。それにしても、231人のヒラに対して、部課長49人という制度は、日頃、割付・校正している人事管理の論文とはやはり別の世界である。

*人文・社会系では、新卒採用を控えている会社では、部下なしに近い有能な課長を、僕自身何人か知っている。

代表作である『みごもりの湖』は実は僕には読みこなせていない。たしかに渾身の力を注ぎ込んでいるという感じはするし、学部時代、クラブでいっしょだった、フェリス出身の、船長の娘さん――小川国夫ファンだった――は、この作品を高く買っていた。静岡や地中海の明るい風土の小川作品と、滋賀や京都を舞台にした秦作品では対照的なので、おやっと驚いたことがある。今年の夏、万葉集を読むのと並行して、読み直すことにしよう。

サイトによると、秦さんに、『抱擁』を送られた方がいるそうだ。対位法的作風の作家にはなかなか鋭いファンがつくものである。中島京子『FUTON』『イトウの恋人』など、どのように読まれるのだろうか。感想をお伺いしたい気がする。

2008年3月14日 (金)

片山杜秀『音盤考現学』

縁あって母宛てに送られてきたものをちょいと失敬した。文句なしにおもしろい。
著者お得意のフレーズをまねるなら、まさに、「片山杜秀、待望の一冊だ!」というところである。

P1010471_2 P1010472_3 学部時代は慶応で日本政治思想史を専攻したというから、てっきり内山秀夫の弟子かな、と思っていたが、前著『近代日本の右翼思想』によると、蔭山宏ゼミ出身である。蔭山氏といえば、『ワイマール文化とファシズム』で、時代の精神――誤解をおそれずにいえば「空気」を見事に描いた人だ。空気を描くといっても、 よくあるエピソードの羅列ではなく、あまり注目されてこなかった雑誌や群小の思想家への注目を通じて思想を詰めていく方法は精緻である。前著はある意味で『ワイマール文化とファシズム』の嫡子といっていい。

私が思うに、本作では、これにくわえて「同時代人性」ともいうべきものへのこだわりが生かされている。同時代というのは、花山多佳子のうたじゃないか、それこそ、一つの車両に乗り合わせたようなものである。運命といっていい。なにしろ人は時代を選べないのだから。まこと、右翼思想を研究する人としては当然の目線だろう。
全50篇のなかから、思いつくままに挙げてみると――、

「朝比奈隆の『無国籍』」で、朝比奈隆を論じて植田壽蔵――アテネ文庫の『ファン・ホッホ』の著者――にいたるなどというのは今日びの若い衆にはなかなかできないわざである。朝比奈の京大法卒という学歴を崇拝する俗物ならどこにでもいるが、彼が文学部に学士入学し、美学を専攻したことから論を展開していくのは、思想研究者としての鋭さに裏打ちされている人でなければできない。

「武満徹とキャバレー・ソング」の武満と江藤淳というのもいい。大切なものとして「夫婦の愛さえあればいい」と語る武満とそれをたしなめる江藤淳、そして、そのあとの意外な論の進め方。

「アンドリーセンと礼楽思想」は政治思想史家ならではの文。プラトンの『国家』を読んだことのある人なら取り上げられている、オランダの作曲家の『国家』なる曲の」CDを注文したくなってくる。

「石田秀実と『気』」での「気」をめぐっての、あえてゆるい見出しと簡略にして要領を得た文章もいい。対象としているものが、いわば、前著で取り上げた三井甲之にもあった思想が音になったようなものだから、得意中の得意、というところか。

「幻の作曲私塾」での『フランシーヌの場合』の郷伍郎→呉泰次郎→金井喜久子というのも、一本の歴史ドキュメントが成立するような話なのだ(南島関係のサイト――たとえばこれをお気に入りにしている人におすすめ)。

「『国民詩曲』と社会主義リアリズム」は、問題提起的。左と右の類似は、もちろんわかるが、著者のいいたいのはそれだけではないはず。つまり、日本での社会主義リアリズムは、ネイションの創出をかんがえていたのではないか。著者はそのあたり、明言されないから、なんとも、悩ましい。おそらくこれは分量の問題もあるのだろう。答えは、10本もの連載を抱えていた頃の厖大な量のコラムのどこかにあるのだろうか。

2008年3月 7日 (金)

『みなさん、さようなら』

公団不要論を読んだ頃に買った久保寺健彦『みなさん、さようなら』。舞台は都営なので、少し事情が違うかな、と思いつつ、PCのすみにあった感想。

私は、団地と呼ばれるコンクリートの箱に住んでいる。だから、主人公が、ある事件をきっかけに一生、団地から出ないという決意をするというのに惹かれて買った。団地を舞台にした教養小説になるのかな? と思いきや、最後は正義と悪の対決ということに……。ちょっとがっかりしたが、これは、私のほうが、甘いのかもしれない。だって、団地は年々住人が減っていくのだ。マンの『魔の山』のような、外から新しいメンバーが入ってきて、入れ替わり立ち代り主人公に影響を与える、というパターンにはなりえない。むしろ、登場人物がそぎ落とされて最後に、重大な人物、つまりボスキャラが出てくるという、ゲームのシナリオ(悪い意味でいっているのではない)に近くなってしまう。主人公が恋愛や冒険をしたり強くなったりするのだから、RPGも立派な教養小説だって?う~ん。 

むしろ、時間の移り変わりの描写――この小説の重要な登場人物は「時間」であると思う――に注目しておこう。冬の大雪による停電で期せずして同窓会をするシーンは、美しい。ブリューゲルの絵のように、といってはいいすぎだろうか。

気になるのは、背景になっているいじめや、少年犯罪の「凶悪化」というのは、取り上げ方次第で、だから厳罰に処するべきなんだよ、というアジになりやすいこと。そういえば、版元は幻冬舎である。石原都知事は、この小説を読んだのだろうか。

2008年3月 2日 (日)

読書少年史1――偉人伝の時代

見事立ち枯れた感のある教育再生会議だが、昨年12月25日に、『社会総がかりで教育再生を』という「第三次報告」を出して一区切りつけていた。総論であげた7本の柱の2本目、「2 徳育と体育」の「健全な子供を育てる~子供たちに感動を与える教育を~」と題された部分で、
「偉人伝、古典、物語、芸術・文化などを活用し感動を与える多様な教科書を作る」
といっている。偉人伝とはなつかしいが、しかし、能天気なものだな、そう思ったのは私だけだろうか。

私の小学生時代(昭和40年代)は、子供向け出版の黄金時代だった。
小学校の2年で校内図書館――最初と最後に必ずクレゾールで手を洗わされた――で最初に借り出したのが、ポプラ社の『ゴッホ――炎の画家』。内容はほとんど覚えていないが、タンギー爺さんに大いに励まされるシーンがあったような気がする。国立国会図書館国際子ども図書館東京都立多摩図書館のサイトで調べてみると、この本は、ポプラ社から、1951~59年に出た100巻ものシリーズ、「偉人伝記文庫」の一冊であり、著者は富永次郎――美術評論家。詩人の富永太郎の弟――だったことがわかる。

それにしても100巻というのは、今では考えられない分量で、1951年から1959年まで(図書館のデータは奥付からとられているだろうから、実際はもっと短期間か)およそ、9年ほどの間、毎月1冊弱出していたことになる。対象となった人物をみると、、大半は偉人伝の常連というか、戦前から現代まで、かならず取り上げられる人物で、
●政治家(含む君主)●実業家●社会事業家●武将ないしは武士●科学者●探検家●芸術家●宗教家
だいたい、この7つのカテゴリー―ー芸術家から特に文学者を独立させれば8つー―のどれかに当てはまる。

性別で見ると100人中、女性は判明している限りでは9人(清少納言、紫式部、加賀の千代、キュリー夫人、クララ・シューマン、ヘレン・ケラー、ナイチンゲール、聖母マリア、樋口一葉)。1割弱というのは、当時の女性の活躍状況からして少ないとはいえないかもしれないが、斎藤美奈子のいう「紅一点」的顔ぶれだろう。とくに、マリアとは! 著者は牧師でもある鑓田研一氏。生涯自体が正確にはわからないし、《史的イエスと信仰のキリスト》ではないが、むしろ、「どう受止められてきたか」のほうが問題になる存在である。人選の基準はどこにあったのだろうか。

いかにも、と思わせる仰々しい副題がついているのもこのシリーズの特徴で、しかもやたら「愛」が安売りされる。
「愛と自由の父」「知と愛の人」「愛の科学者」「愛の宗教家、「愛の国父」「愛の御母」「愛の動物学者」「愛の天使」「愛と芸術の母」「愛の文豪」――。
この10人が誰か、見当がつくだろうか。答えは、順番に、リンカーン、熊沢蕃山、パストウル、内村鑑三、明治天皇、聖母マリア、シートン、ナイチンゲール、クララ・シューマン、徳冨蘆花。知と愛といえば、ヘッセだと思ったあなた、残念でした。しかし、内村鑑三だったら、「愛をたやすく口にするべきではない」と怒り出すのではないか。(以下気の向いたときに続く)

2007年12月30日 (日)

最近の読書(2)

P1010436 ろくに本を読まなかったがそれでも、いくつか、反省させられる読書というのはあった。あるいは雑誌段階で関わった仕事が単行本になっているというのも、一つ。以下記す。なお画像はこれまで述べたものを含む。

大島孝一『戦争のなかの青年』岩波ジュニア新書
これは、Rさんのブログで知った。岩波文庫や岩波新書の、いわば現代の古典となっているものを題材にした作品である。個人的なことをいえば、私の父は、1947年東工大応用化学科卒なので、まさにこのなかの学徒兵の世代である。だから、父の残した蔵書にヴィットコップ『ドイツ戦没学生の手紙』や東大学生自治会戦歿学生手記編集委員会編『はるかなる山河に』はあり、大牟羅良編『戦没農民兵士の手紙』も中学の担任の下宿に遊びに行ったときに借りて読んでいた。いまからいえば、よい読書環境であったわけだが、その反面、「そんなの知ってるよ」という感じで、大学に進んでからはこの分野に眼を通したことはない。
『戦没農民兵士の手紙』にだけふれておくと、最初読んだ時は、「たくさんガシ(ガスのこと)出て難儀していますか」などという素朴そのものの文体にまず感覚的にひきつけられたが、今になって思うと、農民兵士の家族へのやさしさと敵に対する凶暴さ――中国大陸での蛮行もそこから連想されよう――など、日本ファシズムを論じる時は必ず触れられるトピックなのである。

この本の出版された1985年より、読者層はやせ細り、状態は悪くなっている。190頁に出てくる「愛国心とはなくていけないものでしょうか」と問うような学生は、いま、どれくらいいるのだろう。「そんなのデフォでしょ」という具合に安易に当然視する人が、増えている。

岩田正美『現代の貧困――ワーキングプア・ホームレス・社会的排除』ちくま新書
これは、貧困問題への誠実な対応。独法祭りで、やり玉に上がっていた労働政策研究・研修機構が、『日本労働研究雑誌』528号で、この著者に論文を依頼しており、本書の第4章にそれが生かされていることは記憶されていい。

片山杜秀『近代日本の右翼思想』講談社選書メチエ
『SPA!」の名コラム「ヤブを睨む」の著者(往年の片山素秀)の、初の単著。安岡正篤や蓑田胸喜を論じた箇所も面白い(著者は細木数子に「あんたの奥さん、声が出なくなるわよ!」などと呪われているかも知れない)が、健康論や身体論を論じて、三井甲之の「手のひら療治」や佐藤通次の「呼吸法」に触れるいたって、問題は哲学的であることに気づかされる。文体バリバリに硬いので少し疲れる。若々しく荒々しいのがいいという人もいるかしら。

2007年12月 5日 (水)

1年……

このブログを開設してから今日で丸一年。待降節の第一週目である。共謀罪は塩漬けだが……。

読書の続き。

『弥勒』は半分ほど。鉛筆であえて汚しながら読んでいる。大辻隆弘『岡井隆と初期未来』六花書林、は冬休みにとっておくべきなのだろうが、最初の二つの章を読んで、うなずくこと多し。あちこちで評判の高いのも当然。昨年、昨年、「朝日歌壇鑑賞会事務局長」なる総会屋まがいの「愛国者」に突然噛み付かれた経験のある人だが、こういう仕事をされていたのなら、相手の卑小さがよけい見えたに違いない。関連して、先月の校正の帰りによった古本屋で、

古明地実歌集『チャムセ・ノレ』不識書院

を見つけ購入。田井安曇や石田比呂志の作品に、出て来る人で、眼線の低いがしっかりした歌い方と、雀への愛着とに個人的にはポイント高し。

あとは新書と文庫だけ。二た月ほどによんだもの。

広井良典『日本の社会保障』岩波新書
これは、消費税をめぐる論争や、社会保障費をめぐる論争を理解するため。

西原博史『良心の自由と子どもたち』岩波新書(再読)

宇賀陽弘道『Jポップとは何か』岩波新書
佐藤良明『J-POP進化論』平凡社新書
竹中労『定本 美空ひばり』ちくま文庫

夏休みに読んだ鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化』からの発展。所属しているグループへの企画を出すに際して理論武装のために(!)読んだ。
よく、「昔の流行歌手はクラシックの素養があった(ソレニヒキカエ……)と嘆く人がいるが、いくらクラシックの素養があろうが、(1)唱法と(2)曲の組み立て、は別だ、ということを悟らせてくれたのが佐藤良明の本。高校以降この方、音楽を科目としてとったことがない(大学では、文学部に、小島美子が来ていて、人気が高かったが、満員でもぐることは不可能だった)。

ただ、佐藤本、私が07年に本屋で買ったのは99年の初版なのだ。それほど売れないのかい……。

結局、出した企画そのものは範囲が広すぎ、絞る結果に。まあ、それは、それでよかったのかもしれない。そもそも、私は、音楽書の一冊まるごとの編集・校正はやったことがないし、ちょっと大風呂敷を広げすぎたか、と思っていたところ。反省の過程で、

間宏『経済大国を作り上げた思想』文眞堂

を出先の図書館で大急ぎで読み、いろいろなことを教わる。

2007年11月10日 (土)

最近の読書(1)

ここしばらくの読書。
無印は読了、△は部分的に手をつけたもの

P1010207 田井安曇歌集『春の星』不識書院『山口村相聞』砂子屋書房△弥勒』不識書院
単独でのインパクトということでいえば、『春の星』がやはり一番鮮やか。というか、この集の歌が詠まれた頃、私自身が、他の結社のメンバーだったため、総合誌で幾度か田井作品は眼にしている。

・伊佐々村栗原いずく今日来たり墓いくつ読み夕べとなる
・書くことを拒まれてわがあるゆえに道の上の嫗にも訊くわけにゆかぬ
・ここにえにしありし一人を求め来てこのぬばたまの一と夜眠るも
・かの人のついに見ざりし粟島の雪とおもいて砂やまを越ゆ
・湯に下る一首あざやかに思いでて若かりし君をついにかなしむ
・日一と日水はふくらみてありしゆえかなしき人を率行くまぼろし
・書き了えんとしつつ去来はつつましく継ぎたる一人虚構にはみでし一人
・夜の坂のここの曲りになずさいし霧はたちまち後になりぬ
・たいせつに勤めて日々を過ごせれば夜は早く寝ね歌少な少な

といった名作(一と日 の、とを小書きにしていてそれが効果を出しているのだが、ウエブでは再現できない)を含む「霧いくたび」は角川の「短歌」で読んでコピーをノートに張っていた覚えがある。当時は、背景など頭になかったが、あとになってみると、宮本利男という歌人の伝記を書くために取材旅行をした際につくられている。この歌集のおわり近くに位置する「理想」と題された一連は綱手創刊のころのもの。朝日新聞の短歌欄で紹介されているのを見た記憶がある。

『山口村~』は、桃原邑子さんの出てくる「靴」や「「東風平」、「坂の雪」や、そして、出崎哲朗の出て来る「伊那・三河・山城・武蔵」と、あらためて懐かしく読み直す。
ただ、三ケ島葭子に関係する一連になると、どうなのだろう。上記の諸作品や、『経過一束』での赤根谷善治を詠んだ作品と比べてみると、インパクトは強くない。まあ、あちらが、同時代人であり、こちらは大正期の人物でしかもタイトルも「葭子遠足」なのだから比較するほうがないものねだりをしているといえばそれまでだが。

また、たとえば、一茶を詠んだうたでは、

・まなこ怒り足早に江戸に去りてゆく五十過ぎし一茶の梅毒の噂

になると、『右辺のマリア』の

・一茶ひとり一茶ひとりと思いゆくかかる心のいずれにはこぶ

を知っているだけにその暗さ――どす黒さといったほうがいいか――は気になる。

『弥勒』は音数の処理の点で私には追いきれない歌がある。

・死んでいるゆえ美しいうたというものがあるそを拒絶せよ汝(な)は

という志にはやはり背筋が伸びる思いがするのだが、

その前の

・レバノンにシリアにゲリラの処遇をめぐり迫るアメリカと日本の連携

は音数が不安定だし(近藤芳美のような大幅な破調ではないにしろ)、雑報ではないか、としか思えない。

古明地実を悼む「炎」など赤裸々にして沈痛なのだが、いずれ、あらためて。

『いま、社会詠は――WEB時評から発展した論争・シンポジウムの記録』青磁社
吉川宏志が、教育基本法改正に賛成だというのは、少しだけ驚いた。ただ、私自身の立場は困ったことに(?)大辻隆弘がいいたい「いい歌と悪い歌があるだけ」というのに近いのだ。また、高島裕がシンポには参加している。社会科学的認識を一度はくぐった人なので、説得力がある。この辺についてはもう一度読み直すつもり。

2006年12月14日 (木)

自分にごほうび

Photo_1 「自分へのごほうび」というと、OLみたいだが、『南原繁著作集』(岩波書店、1974年)全10巻、月報つきを北海道の古書店から購入した。

アイヌ関係、日露交渉史関係の在庫も豊富な店らしい。

Photo_2Photo_6Photo_8Photo_9 パッキンは、ビニール製の素材ではなく、なんと北海 道新聞。牛の蹄切り師の記事がある 。広告も、あちらのホテルのバイキングサービスや、歌謡ショー、映画の案内、石油の販売、などあっておもしろい。

この買物はネットの「日本の古本屋」で、検索したもの。かつては、「お譲りください」と岩波の『図書』に山陽堂が広告を出していたが、ここ数年のちょっとした南原ブームで第二次(内容的には全く同じ)刊行が決定したためか、月報揃いで、1万2000円(別に送料950円。赤い振込用紙で払い込む)。

この著作集が、学生読書室にあったのを思い出す。政治思想史を学んだことになっているが怠惰な学生で、『政治理論史』や、UP選書から出ていた論説を除けば、そもそも、南原さんのものを読まなかった。政治理論を学びなおすというほどの殊勝な心がけは今の私にはない。政治理論を専門にする友人が、全部は持っていないというのを読んで、ちょっと早まったかな、と思わないでもない。岩波が『国家と宗教』を文庫にするか、時論的なものを『南原繁評論集』として出してくれればいいのに、と思うことしきり。

著者が無教会のリーダーということもあり、クリスマスには無縁ではない。ともあれ、北海道から海を渡ってやってきたのだから、大切に読もう。

購入のきっかけは、教育基本法である。個人の尊厳を打ち出した法は、床屋政談としか思えない一連の審議会を経て、巨大与党の数で変えられつつある。

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